趣味の回転寿司に行って、それから趣味のドトールの後、趣味の映画鑑賞に。
Tジョイ久留米で『ソーシャル・ネットワーク』。
「ソーシャルネットワーク」。IT話をこんなにドラマチックに映画に出来た事に衝撃。ストーリーの流れ・編集テンポ・カット割りの流麗さ・そして役者陣の演技の的確さ・音楽の使い方(鳴るべきタイミングで鳴るべき音楽が鳴る)。すべてが『完璧』で『丁寧』。「なんの過不足も無い」映画だからだ。
元々持っていたデビッドフィンチャー的要素+ここ数年でデビッドフィンチャーが踏み込んだ新しいステージ。それをさらに無駄を削って。シャープにアップデートさせた。
言って見れば「最新アップデート版のデビットフィンチャーらしさ・2010年版デビッド・フィンチャ―節」が超炸裂しているのがこの「ソーシャルネットワーク」。
物語としては非常に地味なんですが、凄い所がありすぎる。
まず最初に言っておかねばならないのは、「これはフェイスブックがどのようにして成功したのかという物語ではないし、フェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグのサクセスストーリーでもない」という事。
映画は、ハーバード大学の学生マーク・ザッカ―バーグがボストン大学に通うガール・フレンドのエリカとデートで食事しているシーンから始まる。
そのデートでの2人の会話劇から映画は始まる。
ざっとまとめるとエリート志向で上昇志向も高いマーク、それをいさめるエリカちゃん、みたいな構図。「俺はもっと上に行くんだ」っていうマークに対して、「一生懸命努力すればそれでいいじゃないの」っていうエリカちゃんの会話なんだけど、この2人の会話がヘンテコで、ぜんぜん会話が噛み合ってないし、2人のコミュニケーションが全く成立してない状態。
なぜなら、マークの「人と会話する能力」に問題があるから。
会話中のエリカちゃんの単なる相槌さえも、彼はそれを相槌として受け取る事が出来てない。
要するに、マークはエリカちゃんの気持ちを全然読みとれてない。
しかもこの読み取れなさは「誰でも分かるような範囲の事が分からない」というレベルだ。
さっきの「単なる相槌であるという事も分からない」というのに象徴されるように、エリカちゃんが何を意図してそういう事を言ってるのか、という事が全然分かってない。
したっけ最終的には、
エリカ『家に帰って勉強しないといけないからそろそろ帰るね』
ザック「君はどうせ二流大学(ボストン大)なんだから勉強なんか必要ないだろう」
なんて極めつけのデリカシーZERO発言の末、エリカちゃんに「あなたがモテないのはオタクだからじゃない、性格がサイテーだからよ!」つって振られる。
字幕では「性格が最低だからよ」ってなってるけど、実際はもっと汚い言葉で罵られている。asshole!とか言われて。クソッタレだからよ!ゲス野郎だからよ!みたいな。
そして彼女にフラれたマークは1人ぼっちで夜道を歩き、大学の寮へ帰っていく。
そんで「ソーシャルネットワーク」ってタイトルが出る。。
この最初の10分弱でマークがどんな男なのかという説明になっている。
まず彼の持っている劣等感ね。
自分はオタクだからモテない、ボンクラだから人から注目されないんだ、という強いコンプレックスを持っている。
次に、マークは自分がいかに天才であるかと言う事を知っていて、自分はみんなとは違うんだという意識が強い。
実際、彼はとにかく頭は良い。でも思考が超論理的で、彼の言ってる事は的確ではあるが、一言一言がいちいち相手の心を傷つけてしまう。
そんでここが一番のポイントなんだけど、
マークは相手の気持ちを考える事が出来ない。
だから、デートで彼女に議論をふっかけて論破しちゃダメだという事も、彼には理解できない。
「君は二流大学なんだから勉強しなくてもいいよ」って言ったのも、マークにとってはあくまで「本当の事を言っただけ」で、『本当の事を言っただけなのになんで相手が起こっているのか理解できない』状態なんだな。
つまりマークは他者の言葉、表情、態度を汲み取って「この人は今どんな気持ちかな?」って事を汲み取る事が出来ないという大欠陥をかかえている。
マークの「他者の気持ちを考える事が出来ない」ゆえに「他者とのコミュニケーションが上手く図れない」という欠陥。その欠陥のせいで周りからどんどん人が離れていく。
これがこの映画全体の重要な部分になってくる。
つまり、この冒頭の10分足らずのデートシーンだけでマーク・ザッカーバーグという男の説明になっているし、この映画がどんなテーマを扱っているのかと言う作品のイントロダクションにもなっている。
さらに、この映画でこれからマークがやっていく事の最初の動機・きっかけにもなっているし、
そしてこの映画がこれからどんなムードで、どんなテンポで進んでいくのかを冒頭でガツンと示している。
これらの要素を全て含んだうえで、簡潔に10分足らずで軽く説明してしまっている、非常に秀逸なプロローグ。この時点で、もう、この「ソーシャルネットワーク」って映画が相当なクオリティの作品だという事が分かる。
もっと言えば、この冒頭の10分がこの映画全体の伏線にもなっていて、このシーンで出てくる話の殆どが後々伏線回収される。
すごくよくできてる!
そして物語は本編へと進んでいきます。
振られて逆上したマークはハーバード大学のWEBサイトにハッキングをしかけて、ハーバードに通っている女子学生全員の画像を集め、それらの画像を使って「フェイス・マッシュ」なるサイトを作る。
そのサイトにアクセスするとランダムに女の子の画像が2枚出てきて、ユーザーがどっちが可愛いか勝ち抜きで投票させてどの女の子が一番可愛いか決めるっていうサイトだ。家畜の品評会からヒントを得たらしいんだけど。ちなみにフェイスブックのフェイスっていうのは元々この顔写真の「フェイス」の事なんですね。
そしたらハッキングがバレて、バレてというかマークはハッキングした事を隠してもなかったんだけど、大学に呼び出されて尋問にかけられるんだけど、ここでもマークと大学の職員達との会話はチグハグで、全く噛み合わない。
『ハッキングしたのは事実だが、これは評価されるべきことだ』とか言い出す始末で、マークは自分が悪い事をしたという意識が全くない。
結果マークは停学処分をくらったうえに、とんでもない卑劣なサイトを作った男としてハーバード大学の全女子生徒を敵に回してしまうんだけど、そんな彼の元にある双子のウィンクルボス兄弟が現れる。
この双子の兄弟って言うのがボンクラオタクのマークとは対極にあるようなキャラクターでね。
まあそれは映画を観てもらえれば分かるんですが。
双子兄弟は、マークのコンピューターのノウハウを見込んで、新しいサイトの立ち上げに協力してくれないかと話をもちかける。
新しいサイトってのはどんなサイトかと言うと、手っ取り早く説明すればハーバード学生専用のSNSのようなサイト。これをエリート男子を求める女の子が閲覧すすようになれば、俺たち簡単にナンパできるしヤリまくれるだろ、という寸法。
双子は「このサイトを作れば、ハーバード学生の役に立つ事ができるし、マーク君の汚名挽回にもなるだろ」と。そしてこの「汚名」という一言にもいちいちひっかかるマーク、っていうね。彼はハッキングしたり女の子のランク付けサイトを作ったことことが悪いとも思ってないわけだから『なんで俺に汚名なんかついてるんだよ!』と内心ムッとしてる。
で、このマークと双子とのやりとりってのもなんか噛み合わない。マークは終始彼らに曖昧な態度をとり続ける。まあ、それは冒頭のデートシーンとも関係してるわけだけど。
この後、マークは、SNS開設の話を持ちかけてきた双子兄弟を裏切って、勝手に、自分自身が立ち上げたサイトとしてフェイスブックを開設、親友のエドゥアルド君と共同で経営し、瞬く間にフェイスブックは世界中に広まり、ユーザーもどんどん増えていく。
ナップスター(無料音楽ダウンロードするアプリケーションの会社)の創業者ショーンパーカーを経営コンサルタント的に採用して、彼にアドバイスもうけつつ、フェイスブックは世界最大のソーシャルネットワーキングサイトとなる。
共同経営していた親友のエドゥアルド君とも上手くいかなくなって、強引に彼を経営から外してしまう。、
結果として双子兄弟からは「アイディアを盗用された」と訴訟を起こされ、親友のエドゥアルド君からは「不当に経営から外された」と訴訟を起こされ、同時に2件の大きな訴訟を抱えることになってしまう。
物語はフェイスブックが大成功を遂げた後に起こされた二軒の訴訟の顛末と、ハーバードの学生寮で起業してから、どの様に成功して行ったのかという物語が、時系列を行きつ戻りつしながら並行して語られてゆく。
まず2件の訴訟を同時進行を見せる。一体どうしてこんな事になってしまったのだろうという興味を観客に抱かせ、その答えを一旦時間軸を戻して過去の物語として見せる事で話が進んでいく。
マークの言い分、双子のウィンクルボス兄弟の言い分、共同経営者だったエドゥアルド君の言い分、この3者それぞれのの視点や証言が、まるでツイッターのタイムラインがどんどん更新されていくように交差して、黒澤明の羅生門的に映画が進行していく。
この訴訟の様子を観てても、マークは全然会話ができてない!っていう。あんまり噛み合わないもんだから途中でお昼休みとられちゃったりして。
ここまで話してきても分かるように
この映画では、マークと他者との間に、ほとんどまともなコミュニケーションが成立しない。
ハーバード大学の職員とのやりとりも、裁判(厳密に言えば裁判前の調停・和解に向けた話し合い)中の弁護士とのやりとりも噛み合わない。
一緒にフェイスブックを立ち上げた親友のエドゥアルド君ともどんどん亀裂が生じていく。最後には訴えられちゃう。
ナップスター(無料音楽ダウンロードするアプリケーションの会社)の創業者ショーンパーカーって人が出てくるんだけど、彼とは会話が上手くいってるかな?と思うんだけど、
よく観てみたら、マークはショーンパーカーの言いなりになってるだけで、コミュニケーションとは言い難い。
この映画ではザッカーバーグはアスペルガー症候群として描かれているんですね。人の感情が理解できない悲劇の人として。
この映画のマークは、「その質問にそう答えるか?」「そういう場所にその格好で行くか?」「そういう場面でそういう態度とるか?」みたいな事の連続なんですね。
天才過ぎて誰にも理解されず、基本的に真実しか言わない。ゆえに、孤独である。
天才でありながら「他者の気持ちを汲み取る事が出来ない」という大きな欠陥をもった孤独な男の悲劇。あわれさ。かわいそさ。
それがテーマになっている映画だという事を念頭に置いて観れば、この映画は完璧に一貫している。
マークの新居に、ナップスターの創業者ショーンパーカーが女連れでやってくる。
この2人にマークがとりあえずビールでもどうぞつってビールを渡すシーン。
ここなんか何気ないシーンだけどマークの人となりが凄く出てる結構重要なシーン。
「ほいっ」って感じでビールの小瓶をを放り投げて渡すんだけど、普通、誰かに物を投げて渡す時って、相手の心の準備が出来てるのを確認して渡すじゃない?マークは相手の表情が読み取れないから、いきなり急に投げちゃう。それをショーンパーカーは慌てて「おっとっと」って感じで受け取る。
連れの女の子は急に瓶ビール投げられて怖くてキャッチ出来ない。で、壁に当たってパリーン!と割れちゃう。
マークは構わず女の子に2本目のビールを投げる。彼女はこれも怖くてキャッチできない。で、パリーンですよ。
つまりマークは、女の子がビールを投げられて怖がっているという事に気づく能力がないし、そんな事になってもマークは「ごめん」も言わずにキョトーンとしてる。
雨の日に空港までやって来たエドゥアルドを迎えに行く約束をブッチしといて悪びれた様子もないのも同じで、マークは他者に対して「申し訳ない」という気持ちを持てない。「人の気持ちが分からない」から「誰かの気持ちに共感する」こともないからだ。だからマークは映画の中で一度たりとも謝ることがない。
この映画のマークは、基本的に笑わない、ニヤッとぐらいはするけど。そして決して謝らない。
エンドロールで「この映画は事実をもとにしていますが、一部脚色してあります」というキャプションが出る。
実際には起こってないフィクションの部分を足したり、実際に起こったことを隠して無かった事にしている。
マークのこれまでの人生の中のより本質的な部分を強調するために、あえて事実を曲げてある。事実を削って真実をあぶり出した。
ここでいう真実とは、さっきも言ったこの映画のテーマ「哀れな天才の孤独」という真実。
映画ではザッカ―バーグには彼女がいない。実際には映画の中にも出てきた中国系アメリカ人の女の子2人組の片割れと付き合って、今も続いている。今ザッカ―バーグは彼女と結婚するために中国語を勉強中だそうだ。
ザッカ―バーグとガールフレンド
このガールフレンドの存在はアメリカでは超有名な話なんだけど、マークの孤独を強調するために、フィンチャ―監督は敢えて彼女に存在を隠した。
映画ではマークは笑わないし冗談も言わないが、実際はそんなことない。
マークの家族が出てこない。存在すらにおわせない。
そして、フェイスブックがどのようにして人気を博して。世界中に拡大していき、マークが億万長者になったかという過程がほとんど描かれない。今ユーザーが世界中にどれほどいるのか、とか、どれくらいの利益をあげているのか、とか、そんなのセリフでチョロっと説明される程度。
なぜなら冒頭にも書いたとおり、「この映画はフェイスブックがどのようにして成功したのかという物語ではないし、フェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグのサクセスストーリーでもない」からだ。
こういう風に、巧みな手法や思い切った演出を沢山使って、徹底して「孤独な天才マーク君の悲劇」という面だけに焦点を絞ってを描いていく事で、
世界で6億人の人がいるフェイスブックの創始者でありながら、その本人はひとりぼっちだという事。
沢山の人と繋がるためのツールを作ったはずなのに、最終的には彼の周りからどんどん人がいなくなっていく悲劇。
大きなものを得ると同時に、また別の大きな物を失ってしまったマークの姿。
これが強調される。
ひとしきりマークの孤独が描かれたうえでの、あの印象的なラストシーンですよ。
マークは担当の女性弁護士からある一言を言われる。そして彼は自らが作ったフェイスブックのサイトをじっと見つめる。
そのラストの何ともいえない表情、彼がとる何とも言えないある反復行動。結局そこ行っちゃうか~みたいな。
このラストシーンからとめどなく湧き出る余韻がね、すごいんだ。
映画を観ている最中よりも、むしろ、映画を観終わってこの余韻に浸ってるときのほうが映画的体験なんじゃないかってくらい。
またこのラストシーンの行動っていうのが、アスペルガー特有の1つの事に執着するという性質を表してもいるんだけど。
ほかにも色んな演出の妙がたくさんある。
とにかく登場人物全員のセリフが多くて、みんな早口。つまり登場人物1人あたりから発生する情報量が膨大すぎ。
フィンチャー監督は役者がせりふをスムーズに言えるまで何回も取り直して、シーンによっては200テイク撮った部分もあるそうだ。
編集と演出・カット割りのテンポもすごく早い。このテンポはただ事じゃない。もう、パンパンカメラが切り替わる。
映画としては物凄く地味な作りになっている。
映画に出てくる数字や起こっている事の規模はデカイし派手すぎるほどで、100億ドルがどうのこうの、5億人のユーザーがどうのこうの、6億ドルの賠償金がどうのこうの、とかね。
でも基本的にはマーク、双子の兄弟、共同経営者エドゥアルド君、っていう、ある1つの学校の中の学生3~4人で揉めてるだけで、しかもメインは会話劇っていう地味さ。この映画の中で起きてることなんて、大半は若い奴らがゴニョゴニョ理屈こねたり、カチャカチャパソコンいじってるだけ。
でも、セリフの多さ、口調の速さ、ハイテンポな編集、巧みな演出のおかげで、
地味で単調なインテリ若造どもの話が、一瞬たりとも目が離せないエリート達の群像劇になっている。
ハッキングのシーンなんか、編集のテンポとタイミングがスゴ過ぎてアクションシーンにすら見える。
PCとかインターネットをここまでアクティヴに撮ってしまうフィンチャー監督のテクニック、おそるべし!っていうね。
普通、PCとかインターネットって題材を扱うと、どうしても「コンピューターの中だけの話」になってしまって、映像として表現するのは難しいと思うんだけど、この「ソーシャルネットワーク」はその辺見事に描ききっている。
これに限らず、この「ソーシャル~」は「PCおよびインターネットが当たり前にある生活」を見事に描写出来ている.初めての映画じゃないかな、と。
例えばマークの親友・エドゥアルド君のフェイスブックのプロフの恋人がいるかどうかの欄が『恋人なし』になってる事をガールフレンドに詰め寄られるってくだり。
浮気しようと思って『恋人なし』にしてるんでしょ~!みたいな。エドゥアルド君が必死でそうじゃないって弁明しても、彼女の方は一切、聞く耳を持たない。
これは「本人の言い分よりもフェイスブックに書いてある事の方が重みを持ってる」って事だろう。
天才マークとそれに翻弄される凡人エドゥアルド君の対比も素晴らしい。
凡人つったってエドゥアルド君はハーバードで経済を学んでるんだから相当な敏腕ビジネスマンな筈なんだけど、それが霞んでしまうくらい、マークのキャラクターは強烈。
そういう意味でもこの「ソーシャルネットワーク」は一見地味何だけど、実は現代のヘンテコさを見事に切り取った傑作。
しかも「こんな映画、観たことない」っていう、発明に近いレベルの傑作だと思いますです。
ちなみに、この映画を観たマークザッカーバーグ本人は「ほぼ全部事実に反している。合っているのは僕の服装くらい」とおっしゃってるみたい。
あとエドゥアルド君、映画の中では彼女とわかれちゃうけど、実際はこの彼女と結婚してます。
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